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中国で一番有名なイタリア人

『マッテオ・リッチ~ドラゴン王国のイエズス会士』

マルケ州と中国の関係は、実に400年もの時を刻んでいます。それはマルケ州出身のMatteo Ricciマッテオ・リッチから始まりました。西洋人ではじめて中国語の読み書きを習い、明朝の都、北京に住み着く許可を朝廷から得たイエズス会士。中国名「利瑪竇」で知られるマッテオ・リッチは、中国と西洋間の文化的な開拓者として、世界中にその影響を与えた人物です。

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↑ マッテオ・リッチ(1552-1610)


1552年にマルケ州マチェラータで生まれたマッテオ・リッチは、1582年イエズス会士としてマカオに到着。翌年からは中国南部の肇慶に定着し、中国語の学習に専念しました。リッチはまず、中国文化を理解するために大変な努力をしたといいます。そして、彼自身の手による最初の世界地図を作り出しましたが、それは世界に初めて中国の位置を示したものでした。

1589年にリッチは韶州へ移り、師のクラヴィウスから習得した数学的な考えを中国の学者らに教え始めました。これはヨーロッパの数学と中国の数学が交流した最初の瞬間とされており、非常に重要な出来事と言われています。その後、1595年に北京を訪問しようと試みましたが、外国人は入ることができませんでした。代わりに南京へ行き、数学、天文学と地理の研究に取り組みます。

当時、マルコ・ポーロが陸路のルートで訪れた“カタイオ”という国が、すでに海路で訪問されていた中国と同じ国であるかどうかについて、ヨーロッパでは議論がなされていました。リッチと同じイタリア人であるマルコ・ポーロは、1271年にヨーロッパからアジアへの旅を始め、イタリアに戻る前に17年間“カタイオ”に住んでいたのです。リッチは、これらの国が同じ中国であったことを確信していましたが、もうひとつの陸路での旅がなされるまでは、確認することができませんでした。リッチの仮説は、1602年にインドから出発したイエズス会士のイルマンとベント・デ・ゴイスによって証明されています。

リッチは南京では歓迎されました。このことは北京への再訪に際し、彼を勇気づけたといいます。そして苦心の末、1601年、明の首府北京に永住する許可を得た最初の西洋人となりました。その地では「大西西泰利先生」として敬愛され、1610年に亡くなるまで住み続けました。

リッチが北京に住んでいたときの中国語に関するレベルは、数冊の本を出版するほど高度なものでした。『天主実義』、『二十五言』など、西洋人ではじめて中国語で本格的な書物を著しましたが、特に、リッチの生徒と共同で書いたユークリッド『原論』の中国版、『幾何原本』の6巻は非常に重要な文献です。これらは“幾何学の最初の教科書”と呼ばれ、リッチは数学史上においても、その存在を示しました。

リッチの成功の鍵は、その魅力的な人柄と中国の習慣に完全に順応したこと(中国学者の服装を身にまとい、中国名「利瑪竇」を名乗るなど)、そして高度な科学的知識によるものでした。中国人から求められる有能な人材となり、地理学、数学、天文学などのヨーロッパ中世・ルネサンスで発展した科学の成果を、中国に伝えるべく努力を惜しみませんでした。

現在でも北京郊外にあるリッチの墓を訪問することができます。中国でマッテオ・リッチほど知られたヨーロッパ人は過去において存在しないでしょう。この事実はマルケ州の誇りであり、マッテオ・リッチに始まったマルケ州と中国の友好関係が、ますます発展することを願ってやみません。

来年はリッチ没後400周年を迎えますが、それを記念して初のドキュメント映画が製作されました。彼の故郷マチェラータを初め、トレンティーノレカナーティチンゴリ
トレイヤ、そして中国でのロケを経て完成した『マッテオ・リッチ~ドラゴン王国のイエズス会士』。リッチの波乱に富んだ人生が現代によみがえりました。先日の第66回ヴェネツィア国際映画祭では初プロモーションが行なわれ、今後、日本でも、皆さまの目に触れる機会があることと期待しています。


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